ENMEIJI
養老四年に聖武天皇の勅願により、行基菩薩が来島海峡を一望する近見山に大日如来の化身とされる不動明王像を刻んで安置した。
後に嵯峨天皇の勅願により、弘仁年間に弘法大師が巡鐘して堂字を再興、信仰と学問の中心道場にした。「不動院・圓明寺」と名づけ、勅願所とした。
この「圓明寺」の寺名は、明治維新まで続いたが、同じ寺名の五十三番・圓明寺(松山市)との間違いが多く、「延命寺」に改号された。 本尊は、宝冠をかぶった珍しい不動明王像で、再三の火災から逃れているので「火伏せ不動尊」と呼ばれている。
鎌倉時代の文永5年(1268)、華厳宗の学僧・凝然(1240?1321)が寺の西谷の坊に籠り、初学者の仏教入門書といわれる『八宗綱要』千二百余巻を著されたことでも知られている。 延命寺の山門は、元今治城の城門の一つを譲り受け、総欅造りの立派な山門をくぐると四季折々の花が咲く境内へ。馬酔木は春の彼岸ごろから可憐な白い花をつけ、4月中旬頃まで楽しめる。
また、鐘楼堂近くには、四国で二番目に古い真念法師の道しるべが残され、農民たちを飢餓から救った越智孫兵衛を偲ぶ供養塔が建てられている。
元今治城の城門の一つを譲り受けた、総欅造りの立派な山門。
宝永元年(1704)に住職が私財を投じて鋳造された。鐘の周囲には延命寺の由来が詳しく刻みこまれている。
目通り3m高さ20余m延命寺が当地に移った際植樹されたと伝えられている近辺では珍しい銘木。
農民たちを飢餓から救った越智孫兵衛を供養塔が建設され、毎年8月7日には盛大な慰霊祭が行われる。
四国で二番目に古い真念法師の道標が残されている。 真念法師の生国は不明であるが、元禄四年(1691)四国巡拝の途中没となっている。五十余年の間に二十数回霊場巡拝され、巡拝者の為に数々の慈善事業をされている。
明治初期より全国永代供養の霊牌が祭られており往時の寺勢を物語っている。不動明王、十二諸尊西国三十三ヶ所の観音さま、薬師如来座像、阿弥陀如来像、びんずりさんがまつられ往時の古文書が蔵されている。
宝冠をかぶった珍しい不動明王座像で、再三の火災から逃れているので「火伏せ不動尊」と呼ばれている。
この世に生まれてこられなかったとはいえ、母親にとって、ご自身のお腹に宿した小さな命。
何らかの形でご供養してあげたいと思う気持ちはあることでしょう。
延命寺ではそのような母親のお心に寄り添い誠心誠意ご供養させていただきます。